どこにでもいる、ごく普通の一般人である一竜と纐纈(くくり)が、フォーリナーの精神侵蝕に耐えきれず膝を折しかけているのは、ある意味では必然だった。

人の心の奥底に潜む後悔や恐怖を抉り出し、増幅させるその攻撃は、魔術的素養を持たぬ者にとっては、抗いようのない悪夢に等しい。

だが、一般人の中でも常人離れした胆力を持つ古井戸組長、魔術師として実力者である凛、そして何よりサーヴァントであるはずのセイバーとキャスターまでもが、声を殺しきれず苦悶を漏らしている。

それは、この場を覆う異変が単なる精神攻撃という言葉では片付けられない“異常事態”であることを、何より雄弁に物語っていた。

「……うっ……くっ……! キャスター……御身は……大丈夫、でしょうか……?」

息も絶え絶えに、それでも気丈を保とうとするセイバーの問いかけに、キャスターは微かに喉を鳴らす。

「ふ……ふふ……この……通り、だよ……。正直……キツいね。 お互い……今は……自分の……心配を……した方が……いいかも……。」

軽口めいた言葉とは裏腹に、その声音には明らかな疲弊が滲んでいた。

それでも彼女達は、前線に立つべき存在として、崩れ落ちることだけは拒んでいる。

己の役割を、サーヴァントとしての矜持を、必死に手繰り寄せる様に。

「……うぅ……。 セイバーだって……こんなに……苦しいのに……オレが……こんなんじゃ……ダメだ……。」

一竜は歯を食いしばり、胸の奥を抉る様な痛みに耐えていた。

若さ故の過ち、見ないふりをしてきた後悔。

それらがフォーリナーの手によって掘り起こされ、容赦なく心を蝕んでいく。

それでも彼は立ち上がろうとしていた。

いつ命を奪われてもおかしくない聖杯戦争の中で、セイバーのマスターに選ばれてしまった責任を放り出すことだけは、どうしても出来なかったのである。

「……セイバー。 君を……苦しめてるのは……“あのこと”だろ……?」

「……一竜殿……。」

多くを語らずとも、その言葉の裏にある想いは、確かにセイバーへと届いていた。

召喚されたあの日、一竜の部屋で夜を越して語り合った、彼女自身の過去──

波乱に満ちた、決して誇らしいとは言えぬ日々の記憶。

それは、彼女にとって初めて腹を割って話した過去であり、同時に一竜にとってもセイバーという英霊の“心”を知った、大切な切っ掛けだった。

「でも……君の意思は……“未来”に……ちゃんと……託された……。 だから……それを……思い……出して……欲しいんだ……!」

魂を削るような一竜の叫びに呼応するかの様に、セイバーの脳裏に、黄金色の記憶がゆっくりと蘇っていく。

戦で討たれた許嫁。

彼が遺した幼い命を抱え、城主としても必死に育て上げた日々。

幾度も迷い、悩みながらも、その子がやがて大名に仕えるまでの成長を見届けたこと。

──その果てに一族の再興を果たし、ようやく安らかな眠りを得た、確かな結末。

「……確かに……私が……このような有様では……あの子に……笑われて……しまいますね……。」

その瞳に宿っていた翳りが僅かに、しかし確かに薄れていく。

完璧には程遠くても、セイバーは自らの呼吸を取り戻し、浅く乱れた息を一つ一つ整え始めた。

「ふふ……。セイバー……やはり……興味深いね……。」

隣で膝をつくキャスターもまた、彼女の不屈の精神、そしてそれを呼び覚ました一竜の存在に、感嘆を覚えたのだろう。

苦しみの中にありながら、僅かに口角を吊り上げていた。

「ふふふ。 中々に粘りますねぇ。 さて、どこまで持つのでしょうか?」

その一部始終を、シリルは姿なきフォーリナーの傍らで静かに見届けていた。

だが、その表情に焦りはないどころか、全てが想定通りであるかの様な、薄い愉悦すら浮かべていた。

この惨状すら、彼にとってはただの“過程”に過ぎなかった。

その一方で、纐纈(くくり)は、尚も過去の“おいた”の記憶に囚われ続けていた。

「ひいぃっ……! 本当(ほんと)……俺って……クズだよねぇ……! ただでさえ……家族にも……じいちゃんばあちゃんにも……申し訳なくて……一生……話せない……こと……してさぁ……!」

軽い気持ちだった。

深く考えもしなかった。

だが、その一瞬の心の揺らぎが今となっては心臓を締め付ける鎖となり、容赦なく彼を追い詰めていく。

過去に呑み込まれた纐纈(くくり)は、周囲の状況を認識する余裕すら失っていた。

足元に転がっていた鉄パイプに気付くこともなく、それを踏み抜き、無様に体勢を崩す。

「……あ(いた)っ!!」

本来なら反射的に両手で後頭部を守れた筈だったが、今やその判断すら一拍遅れ、地面に頭を強かに打ち付ける。

挙げ句の果てには、まだ手に持っていた袋の中の清めの塩が溢れ、顔面に盛大に降り注いだ。

「うぅ……痛い……しょっぱい……。」

鈍い痛みと塩の刺激に、しばし呆然とする。

──だが次の瞬間、彼は唐突に両目を見開いた。

「──はっ! こうしちゃいられない!!」

その声には、先程までの怯えも、自己嫌悪もなかった。

いつもの、軽口を叩きながらも妙に前向きな纐纈(くくり)の声だった。

「おやおや……これはこれは、驚きましたねぇ。」

この変化には、流石のシリルも意表を突かれた。

だが、やはり彼の表情に浮かんだのは焦りではなく、寧ろ純粋な興味だった。

「ミスター・纐纈(くくり)。 貴方は精神干渉にある程度の耐性があるとは思っていましたが……まさかフォーリナーの力すら、こうもあっさり振り切るとは。 見事な“鈍感力”……いえ、精神性ですね。 実に興味深い。」

「むぅっ!こっちだってね、アンタ如きで足止めされる程、ヤワな心は持ってないんですよぉ!」

吐き捨てる様に言い放つと、纐纈(くくり)はシリルには一瞥もくれず、視線を別の方向へ向ける。

「それより……キャスターを助けなきゃ!」

そのまま彼は、苦悶に沈むキャスターの方へと駆け寄った。

「ふふふ……。 (つかさ)……キミって奴は……。」

キャスターは虚ろな瞳のまま、しかし確かな期待を宿した視線で彼を見つめる。

心の底から、何かを引き出してくれると──そう信じていたかの様に。

「キャスター! どうせ苦しんでる原因って、あの件でしょ? 晩年の……あのいざこざ!」

「ふふ……。 流石だよ……(つかさ)……。よく……分かっているじゃないか……。」

それはキャスターの生前、主君の後継者問題を発端として起きた悲劇だった。

主君の子息のうち一人を支持していた彼女は、もう一方を支持する主君の娘によって、耄碌しかけていた主君の耳元に、執拗な中傷──いわゆるネガティブキャンペーンを吹き込まれた。

その結果、キャスターは迫害され、主君から度々送り付けられる“疑念の手紙”によって精神を削られていく。

それが、彼女の死に直結した要因だったとされている。

「でもさ! 主君(あの人)、キャスターが死んじゃった後、本気で後悔してたらしいよ!」

纐纈(くくり)は、諦めずに言葉を重ねる。

「出鱈目を吹き込んでた別派閥の連中を、実刑にしたり追放したりしてさ。 キャスターの息子にも、泣いて謝って……そのあと、ちゃんと厚遇したって話も残ってるよ!」

生前や没後の史実を知っている纐纈(くくり)だからこそ、彼はその“後日談”を確かな事実として語ることが出来た。

「ふふ……ははは……。 一度思い込んだら……猪突猛進……。 でも……間違いに気付けば……素直に認めて……相応の行動を取る……。」

まだ苦悶の表情が消えずとも、キャスターの唇が微かに歪む。

「……まったく……殿らしいよ……。」

完全ではないが、確実に彼女の精神は正気を取り戻しつつあった。

「頑張れ! 頑張れ! 名軍師!!」

纐纈(くくり)その僅かな変化を見逃さず、まるで無邪気な応援団の様に、全力で声を張り上げる。

セイバー陣営と時を同じくして、こちらでもまたマスターとサーヴァントの心が、少しずつ一つになり始めていた。

その光景を古井戸組長もまた、自身の過去に苛まれながら見つめていた。

「……若いモンがよ……あんな風に立ち上がってんのに……俺が……こんなんじゃ……」

掠れた声で吐き出されるのは、後悔と自嘲、そして覚悟だった。

「庇って死んだ兄貴に……これじゃ、示しがつかんな……!」

そう呟くと、組長は足元に転がっていた鉄パイプを無言で拾い上げた。

躊躇うこともなく次の瞬間、それを自らの額へと容赦なく叩きつける。

──ゴンッ

鈍い音と共に鮮血が流れ落ちたが、組長は顔色一つ変えずにそのまま清めの塩を掴み取ると、傷口諸共自らの顔面へと叩き付ける様にぶちまけた。

「……お? これはこれは。」

悠然と、感嘆とも皮肉ともつかぬ声をシリルが上げる。

「これが日本男児の“気合い”というやつですか。」

その視線の先にいたのは、魔術を振り切ったのか、それとも額に塩を塗り込んだ激痛によるものか──

目を大きくかっ開き、獣の様な気迫を放つ古井戸組長の姿だった。

数多(あまた)の修羅場を越えてよ……若い連中を守ってきたのが、俺の人生だ。」

血を垂らしながら、低く唸る声で自らの矜持を語り出す。

「今更、亡霊が見せる幻影如きに屈して……親が務まるかよ……っ!!」

銃で撃たれ、刃で裂かれ、それでも最後まで立ち上がってきた数え切れぬ修羅場。

その全てを背負ってきた男の気迫は、そんじょそこらの一般人と同列に語れるものではなかった。

「……うぅ……わたしだって……負けてられないわよ……!」

その声が響いた瞬間、場の空気が変わる。

「……凛さん!」

「おぉ! これならなんとか勝てそうかも!!」

「だがなぁ……」

喜び上がる一竜と纐纈(くくり)の言葉を遮る様に、組長が血を腕で拭いながら唸る。

「そのフードの姉ちゃんが立ち上がらん限り、まだ分からんがな。」

少しずつ、しかし確実に一同はフォーリナーの精神侵蝕から立ち直りつつあった。

その様子を、過去と目前の恐怖に未だ震えるグレイが、必死に見つめている。

『グレイ! あいつらも必死だろ! お前も……もう少しだ、踏ん張れ!』

鳥籠の中のアッドが懸命に声を張り上げるが、それだけではまだ、彼女を立たせるには足りなかった。

「──そうだ! グレイさん!」

ふと、纐纈(くくり)が思い出した様に声を上げる。

「エルメロイ先生から、ボイスメッセージを預かってたんでした! ROPEで送るんで……聞いといてくださいね!!」

「え……?……師匠……から……?」

瞳を揺らしたグレイは、データが転送されるのを見届けると、纐纈(くくり)は気合いを取り戻した古井戸組長、辛うじて立ち上がる一竜と凛と共に、シリルへと向き直った。

「よし、お前さんら!」

組長が三人の方へ目を向け、腹の底から吼え始める。

「まだキツいだろうがな、腹の奥から、気合いを絞り出せ!! あの金髪野郎の面、拝みに行ってやるぞ!!」

「はいっ!!」

「……はいっ。」

「わたしが……叩き直して……やるわ!」

亡霊とフォーリナーを前に、一般人と未熟な魔術師に出来ることは限られている。

それは、サーヴァントやグレイが立ち直るまでの、ほんの僅かな時間稼ぎに過ぎない。

それでも、今彼らに出来ることは、それだけだった。

「ふふふ……。」

その姿を、まるで物語でも見ているかの様に、シリルは愉快そうに微笑む。

「ここまで抵抗されるとは……実に、面白くなってきましたね。」

強大な力を前にしても、サーヴァントよりも先に一般人や魔術師が先に立ち上がるといった、予測を遥かに超えた展開。

それすらも、彼は楽しんでいるかの様だった。

「さぁ……レディ・グレイやサーヴァント達が先に立ち直るか。 それとも、貴方方が今度こそ再起不能になるか……お楽しみも……いよいよ大詰め、でしょうかね。」

最悪だった盤面は、ひとたび覆された。

事態は再び、振り出しへと引き戻される。

──だがシリルの手元には、まだフォーリナーという切り札が残されている。

この事件の歯車は静かに、しかし確実に決着へと向かって回り始めていた──