シリルによって召喚されたフォーリナーの魔力は、刻一刻と膨張していた。

空気そのものが粘性を帯び、現実という舞台装置に、見えない歪みが走り始める。

やがてその違和感は、一般人である一竜と纐纈(くくり)の感覚にも、じわじわと滲み込んでいった。

「……あれ、纐纈(くくり)さん。 なんか景色にノイズが入ってるっていうか……陽炎みたいに、だんだんと空間が揺れて見えてきてません?」

「うん……言われてみればなんとなーく、”そこに何かいる”感じがしてきたかも! 空気が生温かいっていうか……これこそ、オバケの気配ってやつ?」

半信半疑ながらも、二人が“感じ始めている”ことを察し、凛が即座に声を掛ける。

「その感覚、間違ってないわ。 完全じゃないけど、魔術回路か霊感の適性はそれなりにあるみたいね。 グレイを見れば、今の状況がどれだけ異常か分かるでしょ?」

視線の先では、グレイが地面に膝をつき、身体を小刻みに震わせていた。

更には冷や汗が止まらず、呼吸も浅く乱れている。

「……はい。 ……これほど濃く、暴力的な霊気は……滅多にありません。 ……お役に立てず、本当に、申し訳ありません……。」

『おいおい、謝る前に呼吸を整えろって言ってるだろ! お前が踏ん張れば、道は開ける! それに、こんな濃度の食いごたえありそうな霊気、待ち遠しいんだ!』

アッドの叱咤は荒いが、確かに温度があった。

そんな中、臨戦態勢に入ったセイバーとキャスターへ、古井戸組長が静かに視線を向ける。

「……正直に言やぁ、あんな“見えないモン”相手に、俺がどこまで通じるかは分からん。 だがな、いざって時に背中を預けるくらいなら出来る。 姉ちゃん達、頼んだぞ。」

「承知致しました。 そのお言葉、これ以上ない力となりましょう。」

「こちらからも感謝するよ。 じゃあ──こっちも、そろそろ本気で行かせて貰おうかな。」

キャスターの周囲に、淡い光が立ち昇る。

次の瞬間、私服は弾ける様に霧散し、バーサーカーとの闘いの時と同じ古代中国の装束が彼女の身を包んだ。

それを初めて目にしたセイバーが、静かに目を細める。

「……(みん)よりも、尚古き刻の装束と見受けます。」

「ふふ。 セイバーの時代じゃ、そう呼ばれてたかもしれないね。 じゃあ始めよう──“見えない敵”との戦いをさ。」

だが、その光景を前にしても、シリルの口元から不敵な笑みは消えなかった。

「ふふ……それでこそです。 果たして、実体なき亡霊を貴方方はどこまで打ち払えるでしょうか。」

その言葉を合図にしたかの様に、半透明の亡霊達が動き出した。

セイバーとキャスター、グレイ、一竜、一般人へと、無秩序に迫ってくる。

セイバーとキャスターの一閃が亡霊を散らすも、それは飽くまで一時的な排除に過ぎない。

「……根本的な解決にはなりませんね。」

「うん。 でも、チャンスを作る時間稼ぎくらいにはなる筈さ。」

凛もグレイを庇う様に前へ出て、八極拳で亡霊を打ち払う。

しかし、霊体はすぐに形を取り戻し、再び蠢き始めていた。

「キリがないわね……。 グレイ、今の内に呼吸を立て直しなさい! 突破口は、アンタにかかってるのよ!」

ここまではそれなりに対処出来ているが、問題は明らかに一般人側である。

「……来るぞ!」

「くそぉ、亡霊相手なんて経験とかどうかにも程があるだろ……!」

古井戸組長は拳を固め、一竜は震える手で鉄パイプを拾い上げる──その瞬間であった。

「えいっ! えいっ!」

纐纈(くくり)がバッグから白い粉を掴み取り、亡霊達へ向かって豪快に撒き散らした。

「……は? おいおい。」

纐纈(くくり)さん、それは……?」

「清めの塩! 近所の神社で、三千円分まとめ買いしてきちゃった! こんなこともあろうかとね!」

オカルト趣味の備えは、伊達ではなかった。

「まだあるから、一竜くんも! 組長さんもどうぞ!」

「助かります!」

「度々恩に着る。」

確実な効果があるとは言い切れないが、グレイが立て直す為の時間を稼ぐには、充分すぎる程だった。

一同はそれぞれのやり方で亡霊を払いながら、フォーリナーの魔力が本格的に“形を成す”前に抗い続ける。

──その最中、セイバーが先に微かな異変に気付き始めていた。

「……キャスター。 何やら、説明のつかぬ違和感を覚えませんか?」

低く、しかし確かな重みをもって放たれたセイバーの言葉に、キャスターは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに頷いた。

「流石セイバーだね。 私も、さっきから胸の奥がざわついてる。 理由のない胸騒ぎ──いや、“理由を思い出させられそうな予感”かな。」

自分達の行動に、目立った破綻はない。

索敵も、清めも、陣形も──どれもグレイを持ち直させるには順調である。

それでも確かに、説明不能な異物感がじわじわと精神を侵食していた。

「……っ。 嫌な……記憶が、浮かんできてるわ……。」

凛がそう漏らした瞬間、清めの塩を撒いていた一竜達の手元が目に見えて鈍る。

「うっ……なんで、今更……!? あんな嫌な思い出が……!」

「ありゃ、一竜くんも? 奇遇だねぇ、俺もだよ。 今思い出さなくてもいい記憶が、やけに生々しくてさぁ……。」

「どうなってやがる……。 頭が、俺の言うことを聞かん……!」

一つだけ、はっきりしていることがあった。

亡霊との交戦は続いている──にも拘らず、フォーリナー本人の直接的なアクションが、一切見えない。

見えないからこそ、不気味である。

何も起こらない“筈がない”という直感が、全員の胸に同時に浮かび上がっていた。

「ふふ……。」

静寂を破ったのは、愉悦を滲ませたシリルの声だった。

「効き始めていますね。 ──フォーリナーの力が。」

その言葉に、凛はこめかみを押さえながらシリルを鋭く睨みつける。

「フォーリナーの力……? アンタ、一体なにをしたのよ!」

「ご希望とあらば、説明しましょう。」

シリルは芝居がかった所作で、ゆっくりと両手を広げる。

「このフォーリナー、外的な殺傷能力は──はっきり言って、ほとんどありません。」

当然、それだけで納得できる者はいない。

「代わりに扱うのは──“恐怖”そのもの。 人の心に刻まれた心的外傷(トラウマ)という脆弱性を、強制的に顕在化させる。」

淡々と、しかし陶酔した様に、シリルは続ける。

「過去。 後悔。 罪悪感。 喪失。 それらを“今ここに在る現実”として再演させる。 それこそが──深淵より来たりし者の振るう、“恐怖”という名の権能です。」

演説が終わる頃には、空気そのものが重く沈んでいた。

一同が次々と頭を押さえ、心の底から甦る記憶に悶え始めた。

「……っ、く……! 今ここでかの記憶を……!」

「ふ……ふふ……。 フォーリナー、中々いい性格してるね。 人間だったら、相当歪んでるよ。」

セイバーの瞳には翳りが差し、剣を握る手に力が入らない。

キャスターも苦笑いを浮かべ軽口を挟みながらも、その瞳には明確な苦痛が滲んでいた。

二人の最悪な記憶が、強制的に脳裏を()ぎる。

「……人の心に……土足で踏み込むなんて……本当(ほんっと)最低……!」

凛の脳裏に蘇るのは、幼き日の冬木。

第四次聖杯戦争──父・時臣の死──心を壊された母・葵の姿──そして妹との生き別れ。

「うぅ……。 自分が……自分でなくなってしまう……!」

グレイの震えが、目に見えて大きくなっていた。

『おい、グレイ! 正気を失うな! お前が折れたら、全部終わるんだぞ!』

過去、己の顔がかの騎士王のものへと変わり始めたあの恐怖。

“自分という存在が消えていく”感覚が、再び彼女を締め上げた。

「うぅ……あの時……俺が、もっと冷静だったら……一条さんを傷つけなかったのに!」

「ひいぃっ……! ごめんなさい……ごめんなさい! もうしません……したくありません……!」

「済まん、兄貴……あの時、俺が……調子に乗らなきゃ……!」

一竜は中学時代、好きだった女子に強硬手段をとってしまった過ちを。

纐纈(くくり)は、決して消えない例の“おいた”を。

そして古井戸組長は──若き日の修羅場で、自分を庇って命を落とした兄貴分への後悔と自らへの怒りを、血が滲む程地面に拳を叩きつけて吐き出していた。

「ふふ……これは、想定以上ですね。」

シリルはその光景を前に、思わず息を呑む。

「レディ・グレイも、ここまで弱れば──簡単には立ち上がれないでしょう。」

魔術師として天才的な彼ですら、フォーリナーの魔力の深さには戦慄していた。

だが、同時に彼の計画は理想に近付いている。

「これで、貴方方の精神は著しく蝕まれました。 邪魔者を生かしたまま、私の計画は進行していくのです。」

静かに、愉悦を込めて告げる。

「成就のその時まで──油断せず、観察を続けるとしましょう。」

肉体への傷はない。

だが精神は、確実に削り取られていく。

招かれざるフォーリナーの召喚によって、この戦場は最悪の局面へと、静かに沈み込んでいった──