この旅最後の目的地へ向かう、その道すがら──
一竜とセイバーは、浜松でも団体客お墨付きの鰻料理専門店の暖簾を潜っていた。
店内には炭火の香ばしい香りが満ち、畳敷きの座敷には旅館を思わせる落ち着いた空気が流れている。
案内された座卓へ腰を下ろした二人は、湯呑みに注がれた冷たい茶を一口含みながら、文字だけが並ぶ品書きを見つめ、一竜が思わず頭を抱えていた。
「うーん……せっかくだから本場で食べようと思って来たけど……やっぱり高いなぁ。」
並んだ品々は、どれも学生の財布には中々勇気の要る値段だった。
一番手頃な鰻重でも三千円、ひつまぶしなら三千五百円を超える。
普段の昼食とは、まるで別世界の価格である。
「仕送りと大学のバイト代が残ってて助かったよ……。 帰ったら、しばらく節約生活だな。」
苦笑混じりにそう漏らす一竜へ、セイバーが湯呑みを置きながら穏やかに微笑んだ。
「一竜殿。 もし必要でしたら、これまで剣道部で戴いた報酬をお使いください。」
「あはは、ありがとう。でも、それは最後の最後の切り札にしとくよ。」
顔を見合わせ、小さく笑い合う二人の穏やかな空気を見計らった様に、店員が重箱を運んできた。
「お待たせいたしました。 鰻重セット・花を二つで御座います。」
卓へ置かれた漆塗りの重箱の蓋を開けた瞬間だった。
甘く香ばしいタレと炭火の香気が、ふわりと立ち上る。
艶やかな飴色に焼き上げられた鰻が、白米を覆い隠様に美しく並んでいた。
「……なんと。 がま焼きをこの様に美しく仕立てるとは……。 しかも白米へそのまま乗せるとは、なんとも豪勢な。」
思わず息を呑むセイバーに、一竜は笑いながら頷く。
「ああ、昔は"がま焼き"って呼ばれてたんだよな。 今は"蒲焼き"って呼ぶけど。」
蒲の穂と似た姿から名付けられたその料理も、現代では日本を代表する御馳走の一つとなっている。
城主だった頃のセイバーですら、そう何度も口にしたことはない贅沢だった。
「さぁ、冷める前に食べよう。 脂が固まると勿体無いし。」
「えぇ。 いただきます。」
二人が静かに両手を合わせた後、箸で身を解して白米と共に口へ運ぶ──その瞬間だった。
「──!」
二人の動きがぴたりと止まり、思わず笑みを溢して互いに顔を見合わせた。
「……すごい! 弾力があるのに柔らかい! 天然物ってこんな食感なんだ!」
感動のあまりに言葉を並べる一竜を前に、セイバーも静かに目を見開いていた。
「脂は決して重くなく、されど旨味は濃い。 更に白米と合わさることで、これ程調和するとは……。」
天然鰻ならではの引き締まった身と噛む度に溢れる旨味、炭火の香りに加えて甘辛い秘伝のたれ、そしてそれらを受け止める白米の優しい甘み。
すべてが重なり、一口ごとに幸福が広がっていた。
やがて二人は一口一口を惜しむ様に、自然とゆっくりと味わっていく。
「人生で一度でも、本物の鰻重を食べられて良かった……!」
「えぇ。 現界している間に、この味を知ることができたこと。 ここにいる間のみの経験ではありますが、これもまた一つの宝となりました。」
いつしか二人の頬は自然と綻び、旅の疲れすら忘れる様な穏やかな空気が流れていた。
その様子を、少し離れた座卓からやはり凛が眺めていた。
目の前にある、この店で最も高価な鰻重を淡々と頬張りながらも、その視線は自然と二人へ向いている。
「(そうよね。 一般の大学生にとっては、こういうお店なんて滅多に来られないもの。)」
遠坂家の財産を受け継いで育った凛にとって、この値段は少々贅沢な外食程度だが、一竜には"思い切った旅の記念"だった。
そんなことを思いながらも、二人より先回りする為にも、彼女は残りの鰻を少し急ぎ気味に平らげていく。
食事を終え、店を出る頃には夏の日差しは更に強さを増していた。
「高かったけど、これも旅の思い出代ってことで充分元は取れたかな。」
「えぇ。 とても満ち足りたひと時でした。 残るは、最後の目的地ですね。」
この旅の最後の目的地に想いを馳せ嬉しそうに微笑むセイバーを見据え、一竜はスマートフォンで地図を開いた。
「ああ。 食後だし、ゆっくり歩いて行こう。 オレも景色を楽しみたいし。」
「承知しました。 私も、この地を少しでも目へ焼き付けておきたいです。」
二人は穏やかな笑みを交わし、並んで歩き始める。
その背中を物陰から見送る凛は、紙の観光地図へ目を落とした。
「……やっぱり。 最後は、あそこなのね。」
進もうとしている方向を見て、一竜の意図を悟った凛は帽子を目深に被り直し、何食わぬ顔で尾行を再開した。
「……あの人、またさっきのお客さんじゃない?」
「ずっと同じ方向に歩いてるけど、大丈夫かな。」
尤も、そんな通行人達の小声が、自分へ向けられていることには最後まで気付かぬまま。
鰻料理店を後にしてから十分ほど歩いた頃──
二人の前には、深い緑に包まれた、標高百十五メートルと小高い山が姿を現した。
一見すれば、どこにでもある穏やかな里山だが、その姿を目にした瞬間、セイバーの表情が目に見えて変わる。
「──! 一竜殿……この山容は、もしや……!」
その声には、驚きと期待が入り混じっていた。
一竜は悪戯が成功した子供の様に笑いながら、口をひらく。
「答え合わせなら、あそこにある案内板を見てみな。」
促されるまま二人は案内板の前へ歩み寄り、そこに刻まれていた文字を目にした瞬間、セイバーは静かに息を呑んだ。
『井伊家ゆかりの地 井伊谷城跡』
「……やはり、井伊谷城。」
その一言には、万感の思いが滲んでいた。
「ああ。 お城そのものは残ってないけど、せめて今の城下を見せたくてさ。」
それは、生前彼女が拠点とし多くの決断を下した城。
今は城郭こそ失われ、公園として整備されているが、その地そのものは今なお人々に親しまれている。
「お連れくださるとは思っておりました。 されど……いざ目の前にすると、胸の高鳴りを抑えられません。」
セイバーは山頂を見上げる。
そこにはもう天守も櫓もないが、それでも彼女には、あの日々の面影が確かに見えていた。
そんな彼女の横顔を、一竜は優しく見つめる。
「じゃあ行こうか。 城主、帰城の時間だ。」
「えぇ、 参りましょう。」
冗談交じりのその言葉に、セイバーは思わず笑みを零した。
一竜は案内板をスマートフォンで撮影し、山道へ足を踏み入れる。
少し遅れて、物陰から様子を窺っていた凛も案内板の前へやって来た。
「えっと……この道をまっすぐ行って……途中で右に曲がって……ジグザグで……あーもう! 紙の地図くらい置いときなさいよね!」
スマートフォンの地図機能も写真も自在に扱えない凛は、バッグからメモ帳とペンを取り出し、案内板の略地図を猛烈な勢いで書き写し始める。
文明の利器を使えないことが、今だけは少しだけ恨めしかった。
一方、二人が十分程山道を登ると、木漏れ日が足元を照らし、小鳥の囀りが静かな山中へ響いていた。
道中には休憩所や記念撮影用のパネル、歴史を紹介する案内板が点在している。
「かつてはただの山道も、それが今や人々を楽しませる場所となっているのですね。」
セイバーは懐かしさ半分、嬉しそうに辺りを見回した。
「ああ。 ここまで整備されてると、登る人も少しは楽になるんだろうな。」
そう言った一竜だったが、明らかに肩で息をしていた。
「……とは言え。 オレは結構息が上がってきたけど。」
都内で単身暮らす様になって久しい彼にとって、久々の山道は思った以上に脚へ応えていた。
その様子を見たセイバーは、どこか懐かしそうに微笑む。
「この道は、私にとって日常で御座いました。 故に、身体が覚えているのでしょう。」
彼女の歩みは実に軽く、まるで故郷へ帰る子供の様だった。
「……でも、ほら。 もう頂上が見えてきた。」
「えぇ。 かつて見守り続けた城下を、この時代でも見られるとは……。」
セイバーは自然と歩幅を速めた。
辿り着いた山頂には、街を見下ろせる展望台と、木陰に設けられた木製のテーブルが静かに佇んでいた。
当然ながら、井伊谷城の姿はどこにもない。
しかし、展望台へ歩み寄ったセイバーの瞳は、まるで幼子の様に輝いていた。
二人は並んで景色を見下ろしたその先にはには、一面に広がる現代の井伊谷があった。
穏やかな田畑、整然と並ぶ住宅、遠くまで伸びる道路、そして、人々の日常が。
「……これが。 この時代の井伊谷。」
かつて泥に塗れ、血を流し、命を削りながら守り続けた地は今、人々が何気ない日常を送る平和な町へと姿を変えていた。
「田畑は昔より減りましたが……人々の暮らしは、比べ物にならぬ程豊かになっております。」
「人口も、当時とは桁違いだからな。 今じゃ一億人を超える国だし。」
文明や医療、教育や政治や外交と、数え切れない積み重ねがこの景色を作り上げてきたと言えよう。
セイバーは静かに目を細める。
「民は笑い、子らは走り、争いを知らぬ者も多い。 これほど喜ばしいことはありません。」
彼女の脳裏には、幼き日の城下が浮かぶ。
飢饉に苦しむ者、田畑で汗を流す夫婦、見回り中に交わした何気ない挨拶など、全てが遠い記憶となって蘇る。
「私が守ろうとした地をあの子が受け継ぎ、その先にこの未来がある……そう思えば、私は本当に幸せです。」
その言葉に、一竜は静かに笑った。
「ああ。 それがちゃんと今に繋がってる。 だから今、この景色がある。」
二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
ただ静かに吹き抜ける夏の風を受けながら、眼下へ広がる井伊谷を眺め続ける。
少し離れた木陰で、凛はペットボトルの水を一口飲みながら、その光景を表情を緩めて見守っていた。
「……これで、少しは肩の力も抜けたかしら。」
昨日まで戦いだけを見据えていた二人が、今だけは穏やかな顔で故郷を眺めている。
だからこそ、この束の間の平穏だけは誰にも邪魔させたくなかった。
夏風が木々を揺らす音だけが、静かに山頂へと響いていた。
それから幾許かの時が流れ──
夏の陽は完全に落ち、井伊谷の空を静かな夜が包み込んでいた。
一竜とセイバーは宿泊先として予約していた格安の老舗旅館へチェックインをした後、夕食と温泉を済ませ、案内された和室で束の間の休息を取っていた。
畳の香りが心地よく漂う室内の障子越しには虫の音が絶え間なく響き、窓の外では大きな湖の側の木々が夜風に揺れている。
一竜は浴衣の着崩れなど気にも留めず、布団を丁寧に敷き直していた。
対してセイバーは、浴衣を乱すことなく美しく着こなし、小卓の椅子へ静かに腰掛けている。
その立ち居振る舞いは、まるで旅館そのものに溶け込む様だった。
やがて彼女は穏やかな笑みを浮かべ、静かに口を開く。
「一竜殿。 生まれ育ったこの地の未来をこの目で見届けられたこと、そして多くの良き景色と、人々の営みに触れられたこと……心より満たされた旅で御座いました。」
「そう言ってもらえてよかったよ。」
最後の布団の皺を伸ばし終え、思わず顔を綻ばせた一竜が小卓のセイバーの向かいへ腰を下ろす。
「今日見た景色も、この町も、全部セイバーが守ってきたものの続きなんだよな。 それに、君が最後まで踏ん張って、許嫁の遺した子へ未来を託したから、今がある。」
その言葉に、セイバーは少しだけ視線を伏せた。
「……いえ、この地を最後まで守り抜いたのは、彼です。 私は、それまで責務を果たしたに過ぎません。」
照れ隠しとも、慎ましさとも取れる声音だったが、一竜は小さく笑う。
「そこなんだよ。 責務を果たしたっていう積み重ねが一番すごいんだ。 土地も、城も、家も、民も、そして一族も。 全部守り抜いたから、次の世代へ繋げられた。 それって誰にでも出来ることじゃない。」
セイバーは静かに湯呑みを手に取り、立ち上る緑茶の湯気を見つめながら、小さく頷いた。
「……有難きお言葉です。」
窓の外へ目を向けた夜の井伊谷は、昼間とは違う静寂が全てを包んでいた。
「父上や許嫁が遺されたもの、一族が紡いできたもの、それらを守る為だけに、私は剣を振るってまいりました。 それを軽んじることは……きっと、あの方々の人生を軽んじることにも繋がってしまいます。」
「ははっ、そこまで言うつもりじゃなかったけどさ。 でも、胸を張っていいよ。 君は、本当にやるだけのことをやってきたんだし。」
その言葉を受け、セイバーは穏やかに微笑んだ。
まるで長い年月を経て、自らを少しだけ肯定できた様な笑みだった。
湯呑みを静かに卓へ戻し、そして一竜を真っ直ぐ見つめる。
「一竜殿。 もし、民の心に今よりもう少しだけ余裕があり、互いを思いやる優しさが広がる世であったなら──無益な争いは、もっと減らせていたのでしょうか。」
その問いは、以前五陣営での奇妙な夜会で語り合った理想へと繋がるものだった。
「ああ。 そんな未来なら見てみたいかな。 歴史を見てても思うんだけど、もし人が追い詰められずに済んでたら、鎖国も生類憐れみの令も、違う形になってたかもしれない。」
「どちらも、私の没後の出来事ですね。 時代が違えば、正義も変わる。 それでも、人の心に余裕があれば、救われる命もあったのでしょう。」
部屋に静寂が流れるも、その沈黙を破る様にセイバーはゆっくりと言葉を紡いだ。
「願わくば──民が互いを思いやり、優しさを失わぬ世。 それこそが、私の聖杯への願いです。」
一竜は自然と笑った。
「いい願いだと思う。 全部を正すのが正解かは分からないけど、そんな未来ならオレも見てみたい。」
歴史を学び、人の生き方を学び、様々な価値観へ触れてきたからこそ、その願いは一竜には決して綺麗事には聞こえなかった。
「だからこそ、決戦ではその願いごと背負って戦おう。 君がずっと守り抜いてきたものを信じて。」
セイバーも力強く頷く。
「えぇ。 その言葉、胸に刻みます。」
少しだけ沈黙が流れ、彼女は微笑む。
「さて、一竜殿も今日は歩き通しでお疲れでしょう。 そろそろ休みましょう。」
「ああ。 そうしよう。」
二人は立ち上がり、部屋の照明を落とす。
柔らかな闇が和室を包み、虫の音だけが静かに響いていた。
布団へ潜り込み、一竜が天井を見つめたまま口を開く。
「セイバー。 決戦がいつ来るか分からないけど、最後までよろしくな。」
セイバーも同じように天井を見上げる。
「えぇ。 こちらこそ、最後の一瞬までお供いたします。」
その短い約束を最後に、二人はゆっくりと眠りへ落ちていった。
その頃、部屋の外では温泉上がりの凛が壁へ背中を預けながら静かに耳を澄ませていた。
「(うんうん。 これなら大丈夫そうね。)」
旅へ出る前とは違い、二人共肩の力が抜けていた。
決戦への覚悟は変わらないものの、心には確かな余裕が戻っている。
凛が満足そうに小さく頷く、その時だった。
「あの……お客様。」
背後から遠慮がちな声が掛かる。
振り返ると、中居の女性が困った様な笑顔を浮かべていた。
「他のお客様のプライバシーに関わりますので……ご遠慮いただけますでしょうか。」
「…………。」
凛の思考は些か止まるが、数秒後にまるで目が覚めたかの様に我に帰った。
「……えっ。 あっ、すみませんっ! 部屋へ戻りまーす!」
凛は小声で謝罪しながら、慌てて廊下を小走りで去っていく。
その背中は、歴戦の魔術師とは思えない程に慌ただしかった。
「……まったく。 最後くらい、格好つけさせなさいよ。」
誰にも聞こえない声でぼやきながら自室への廊下を急ぐが、その表情には苦笑いと安堵が入り混じっていた。
決戦の日は、もう遠くない。
それでも今日という一日は、二人にとっても、自分にとっても、きっと忘れられない小さな休息になったのであった──