各陣営が、それぞれの思惑を胸に“残された日常”を過ごしていた頃──

都内のホテル、その一室。

柔らかな照明に照らされた空間の中央、ロード・エルメロイII世がソファに身を預けていた。

その姿は休息というよりも、思考の限界から“強制的に停止させられた機構”に近かった。

灰皿に折り重なる様に積み上げられた葉巻の吸い殻は、彼が積み上げてきた仮説の墓標にも等しい。

机上の殴り書きのメモが乱雑に散らばる因果の線や矢印、そして断片的な単語が並び、それらはまるで、迷宮を俯瞰しようとした者が描いた“未完成の地図”だった。

そして今、その主は束の間で思考から解放されていた。

「……ん……」

微かな声と共に、瞼が開く。

その瞬間を逃さず、静かな気配が寄り添った。

「あっ、師匠。 お目覚めですね。 お水を用意します。」

既に彼女は、デスク周りの片付けを終えつつあるグレイだった。

吸い殻、空の容器、乱れた環境、その全てを音もなく整えていく。

「あぁ……グレイ。 助かる。」

低くかすれた声の彼の元に、彼女は無言で頷くと、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをソファ横のテーブルへとそっと置いた。

「もう少し横になったら……また作業に戻らねばな。」

その言葉に間髪入れず、僅かに強い声が放たれる。

「──師匠。 拙は申し上げた筈です。 今日のところは休むべきだと。」

静かだが揺るがぬ意思に、ロード・エルメロイII世は僅かに目を細める。

「……ふっ、そうだったな。 君の言葉は、無視すべきではない。 今日は……大人しく従おう。」

それは降伏ではなく、信頼による“選択”だった。

数日前に彼が過労で倒れた事実──その記憶は、グレイの中で未だ鮮明に残っている。

同じ轍は踏ませまいと。その意志が言葉の端々に滲んでいた。

「だが──明日からは再び集中する。 時間がない。」

一拍置いた後、彼は再び葉巻へと手を伸ばし火を点けた。

ゆらりと、煙が部屋の天井へと立ち昇る。

「アーチャーが退場し……残るは四陣営。」

その現実は、彼の思考に新たな圧を加えていた。

「……メルヴィンさんからの情報ですね。」

「あぁ。 問題は最後の一片──ライダー陣営が話だ。 ここの情報さえ掴めれば……新制度を止める“決定打”になる。 だが、あの女狐のことだ。」

ライダー陣営の監督役──化野菱理。

その存在を口にするだけで、空気が僅かに冷える。

「彼女が秘匿している限り、我々は永遠に外周を回るしかない。」

思考は、袋小路の様にそこに突き当たっていた。

「……師匠。」

グレイがふと声を落とすと、何かを思い出したかの様に足を動かす。

「少し、お待ちください。」

そう言い残し、静かに部屋を出て行った。

扉が静かに閉まる音の後、残されたエルメロイII世は、煙をくゆらせながら三十秒の沈黙と共にした。

「お待たせしました。」

開かれた扉の先のグレイの手には、小さな携帯機が握られていた。

「……これは。」

「今日だけです。 気分転換を。」

作業に集中する為に、以前から没収していた彼の私物の携帯ゲーム機だった。

「……ふっ。 君は本当に……助かるよ。」

はっきりと笑みが浮かび、葉巻を灰皿へ戻してソファに身体を預ける。

電源を入れると、チープな電子音が小さく鳴った。

視線を画面に向けたまま、思考は止まらない。

「……しかし、ロード・バリュエレータの意図が未だに見えん。」

「……はい。 彼女は、何も語りませんでしたから。」

グレイも小さく頷いた。

「──Whydunit(ホワイダニット)。 “なぜ、それを為したのか”。 動機なき計画などあり得ん。」

それはロード・エルメロイII世が最も重視する推理の核。

今回の“新制度”において、それが完全に隠されている。

「……それを、隠し通せている。 だからこそ不気味だ。」

静かな結論を唱え、部屋にはゲームの電子音と微かな呼吸音だけが残る。

だがその裏で、思考は止まっていない。

見えない敵──見えない意図。

その中心へと、尚も手を伸ばし続けながら。

二人は同じ空間で、同じ“見えない迷宮”を見つめていた。

同時刻──ロンドン。

時計塔の朝は、外界の喧騒とは切り離されたまま始まる。

重厚な石造りの廊下を抜けた先、

その最奥に位置する執務室では、ロード・バリュエレータが沈黙していた。

その室内に満ちるのは静寂ではなく、ある種の“圧”である。

凍てつく様に張り詰めた空気の奥底に、押し殺された怒りが確かに存在していた。

机上に置かれた書類は整然だが、それに触れる気配はないが、指先が僅かに動く。

それだけで、この場の緊張は臨界に達していた。

その時、長い廊下を軽やかな足取りで進む影が一つ。

シリル・ファラムス。

口元には、いつも通りの不敵な笑みが浮かんでいた。

梨園町での一件から十日。

帰還は遅れたが、それすらも彼にとっては些事に過ぎない。

日本の警察に顔を覚えられ、正規の経路は封じられていた。

故に、裏から時計塔が手配した船に揺られ、ようやくこの場所へ戻ってきたという訳である。

執務室の前で足を止めると、静かにノックをし始めた。

──コンコンッ

「──入り給え。」

即座に返る声は低く冷たく、それでもお構いなしに扉が開かれる。

「失礼致します。 シリル・ファラムス、ただ今日本より帰任致しました。」

礼節を重んじている様に見えるが、その目に反省の色はない。

その先のロード・バリュエレータの瞳は、明らかに温度を持っていなかった。

「……よく戻ったな、シリル・ファラムス。 呼び出しの理由は──理解しているな?」

「えぇ。」

明らかな圧力を放った平坦な声に臆することなく、シリルはまるで臆していないのかすぐに言葉を返した。

「一般人への魔術干渉による暴動誘発。 それに伴う指名手配。 加えて、フォーリナーの召喚──即ち、聖杯戦争に於ける違反のことですね。」

一切の淀みなく、薄ら笑いを崩さず並べる。

まるで、自分の罪を“報告事項”として処理しているかの様に。

「……ならば、話は早い。」

ロード・バリュエレータの視線が、僅かに鋭さを増す。

「君の行為は、魔術師の歴史においても看過できぬ重大な逸脱だ。 理解しているな? 弁明があるなら言い給え。」

空気が張り詰める、視線だけで圧殺できるほどの威圧を、彼女は放った。

「えぇ、お言葉に甘えて。」

それでも、シリルはまるで待っていたかと思わんばかりに、笑みを崩さない。

「私はただ──停滞したこの世界に、“神秘による変革”をもたらしたかったに過ぎません。 新たな時代の楔を打ち込む。 それだけです。」

淡々と並べられるその態度に、ロード・バリュエレータは小さな溜息を吐いて目を伏せた。

「……革新か。 その衝動は理解できる。」

そこはやはり、民主主義である彼女個人の返答である。

だが、続く声音は冷酷で、視線が真っ直ぐにシリルを貫いた。

「だが──君は秘匿性という、魔術師の最低限の倫理を踏み躙った。」

それは、ただの規則ではなく、魔術師の存在理由そのものに関することだった。

「その意味は──分かるな?」

「えぇ。」

相変わらず笑みを浮かべたまま、シリルは頷く。

「ならば、結論は一つだ。」

机上のペンが静かに置かれ、彼女の口から宣告が放たれる。

「これはロード・バルトメロイの裁定によるもの。 シリル・ファラムス──君の席は、最早時計塔のどこにも存在しない。」

空気が完全に凍りつき、環境音すら聞こえない静けさが生まれた。

除名は死刑ではないが──それ以上に“魔術師としての死”に近い。

「……ふふふ。 異議はありません。」

眉は僅かに下がるものの、その笑みは消えず、更に瞳に後悔の色はない。

「一時間以内に私物の回収、研究資料の返却を完了し、時計塔から退出せよ。 これが最後の命令である。」

「承知致しました。」

ロード・バリュエレータは即座に切り捨てるも、シリルは普段の会話かの様にあっさりと返した。

「失礼致します。」

軽い頷きと共に扉を開き、その扉は無機質に閉まる

その最後まで、シリルの口元は愉快そうに歪んでいた。

除名された男の顔ではない。

寧ろ、これから“自由になる者”の顔だった。

それからしばし、一つのノックが静寂を破った。

──コンコンッ

「ロード・バリュエレータ。 創造科(バリュエ)のミルコ・ボテッキアです。」

「──入り給え。」

扉が開かれ、先程とは対照的に整然としたミルコが室内へ入ってくる。

「本日より執務を再開致します。 併せて、此度の聖杯戦争の報告に参りました。」

「あぁ、把握している。 確認だけでいい。」

ロード・バリュエレータが間髪入れずに言葉を返し、淡々と周知の内容を告げる。

「バーサーカー陣営に敗北、それに伴うアサシンの消滅、マスターである猪狩晶真の死亡──そして、帰任までの間に日本で観光。」

最後の部分で、僅かに口角が上がる。

「……相違ないな?」

「えぇ、問題ありません。」

ミルコは頷き、咳払いをして口を開く。

「観光については、猪狩氏の上役の勧めによるものですが、自分の判断であることは──」

「構わん。 異文化の体験は、敗北の代償としては上等だ。」

ほんの僅かに空気が緩み、ロード・バリュエレータは目を細めて続けた。

「日本の色彩の様な文化は、刺激になったか?」

「……えぇ。」

短いが、その返答は確かな実感を含んでいた。

その一瞬の緩和を逃さず、ミルコは切り出した。

「一点、よろしいでしょうか。」

「あぁ。」

「今回の“新制度”──その目的は、どのようなものなのでしょうか。」

沈黙の中で一瞬だけ、ロード・バリュエレータの目が見開かれるが、すぐに目を細めた。

「……ふっ。 やはり気になるか。」

椅子に深く身を預け、口角を上げて切り出す。

「答えは簡単さ。 魔術師の存在と歴史を──オレは悪い方向へは転ばさない──いや、転ばせない。」

それ以上は語られないが、その断言の裏には“個人の意志を超えた何か”が滲んでいた。

「……ありがとうございます。 では、研究に戻ります。」

「あぁ。 励みたまえ。」

ミルコは静かに軽く頷き、執務室を後にした。

再び静寂に塗れた室内に残るのは、沈黙と未だ解き明かされぬ意図。

その“核心”は、依然として霧の中にあった。

同時刻──日本では午後七時を少し回った頃。

栄植に聳える三津井記念病院の一室では、白々しい程に均一な蛍光灯の光が静かに空間を満たしていた。

そこにあるのは生活ではなく、“経過観察”という名の時間。

ベッドには冨楽謙匡が横たわり、その傍らに寄り添う両親の姿。

本来ならば、面会時間はとうに過ぎているが、鬼気迫るこの病室だけは例外だった。

それだけの“事情”がある。

「……謙匡、目を覚ますかしらね……」

「あぁ……命に別状はないと聞いている。 だが……いつになるのか……それだけが分からない。」

祈りに近い母の声に、父が静かに言葉を切る。

──三週間、あの日から既にそれだけの時間が流れていた。

最初の一週間は、まさに綱渡りだった。

輸血、心電図の監視、絶え間ない医療処置。

命を繋ぎ止める為の戦いから残る二週間は──“目覚めない時間”だった。

「失礼致します。」

ノックと共に、看護師が入室する。

「シーツを交換致しますので、少し体を動かしますね。」

手慣れた動作で、冨楽の身体を丁寧に横へとずらした、その瞬間。

「……ん……んん……」

僅かだが、確かに声が──首や指が動いた。

「──!?」

ベッドの側にいる三人の空気が、一瞬で変わる。

そして──ゆっくりと瞼が開いた。

「……っ、謙匡!!」

「謙匡……お帰り……!」

堰を切った様に、両親の目から、そして看護師でさえも釣られて涙が溢れる。

その光景をぼんやりと見つめながら、冨楽は弱々しく口を開いた。

その声は、確かにここに“戻ってきた”声だった。

「……あれ……? お父さん……お母さん……ここ……病院……?」

冨楽は起き上がろうとするも、自分の身体に違和感を覚えた。

「……あれ……脚が動かないんだけど?」

軽い混乱を交えつつも、まるでただの痺れだとでも思う様な軽い反応だった

しかし、父の顔が静かに曇り、重い声を放つ。

「……謙匡。 脚は……もう動かない。 ──脊髄が……修復できない程に損傷している。」

その言葉は、胸や脳に突き刺さる様な刃だった。

「……そっか。 ……やっぱり、罰が当たったんだな。 仕方ないよな。」

冨楽は静かに受け止め、ほんの僅かな沈黙の後に視線を落とす。

その言葉に、両親も看護師も言葉を失う。

事情を知らない者には、理解できない“納得”だった。

「謙匡……何があったの……?」

母が恐る恐る問い、冨楽がゆっくりと息を吸って語り始めた。

「……全部、俺が蒔いた種だった。」

隠さず、逃げず、自分の過ちをひとつずつ──シリルのことは伏せたままだが──

誘導され、暴力に加担したこと、纐纈(くくり)に向けた言言葉、そして、彼を襲撃しようとした愚かさ──そのすべてを。

その後、真剣に話を聞いていた父が、静かに頷く。

「……そうか。 お前なりに……苦しんでいたんだな。」

「……ごめん。 本当は……捕まって……全部終わらせたかった。」

冨楽は俯き、震える声でそう話した。

「そしたら……二人とも……俺と縁切ってくれるかなって……」

その言葉を、遮る様に──

「何を言ってるの。」

母の暖かい手が肩に触れ、優しい声を上げて諭し始めた。

「親っていうのはね──何があっても、子の味方なの。 それに……あんた、生きてるじゃない。」

目の揺れる冨楽の目を、母が真っ直ぐに見つめる。

「脚は動かなくなったかもしれない。 でも──命は残った。 両腕も、言葉も。 それだけあれば……やり直せるわ。」

父も力強く頷き、もう片方の肩に手を添えた。

「そうだ。 父さん達も支える。 車椅子だろうが、ここからやり直せばいい。」

逃げ場のない真っ直ぐな言葉には、逃げることを許さない優しさが溢れている。

その愛を感じた冨楽の中で、何かが解けた。

まるで、長く絡みついていた“何か”が外れるように。

「……っ……ありがとう……。」

視界が滲み、声にならない声でそう呟く。

それでも、確かに届いた。

代償は大きく、取り戻せないものもある。

だが──“生きている”。

その事実だけは、確かだった。

そして、今度こそ操られず、自分の意思で生きる。

その決意が、静かに胸の奥に根を下ろしていく。

まだ聖杯戦争自体は終わっていないが、彼にとってはもう一つの戦いがここから始まろうとしていた。

しかし、それはまたこの物語には関わらない、別の話である──